−建物について−
禅宗様式の建物として今日国宝に指定されていますが、その特色としては、屋根の勾配の美しさ、軒の反りの美しいこと、柱の細いことがあげられます。
そして屋根の軒下から出ている垂木ですが、特に上の段の垂木はよく見ると、扇子の骨のように広がっているので、扇垂木と呼ばれています。これが、屋根を一層大きく、また建物自体を小さいながらも大きく見せています。
長押の上に「弓欄間」または「波欄間」とも呼ばれている欄間があります。これは装飾ではありますが、この隙間から内部に光と風を送って、建物の保存にま役立っています。
次に花頭窓ですが、鎌倉時代後期の特色としては、窓の形が簡素で、窓の外枠のたての線が真っ直ぐになっているのが特徴です.。(禅堂・江戸時代の花頭窓は広がっています)
外部の柱と基盤の間には、礎石があり、これが柱の下を腐らないようにさせています。特に鎌倉は湿気が強いのでこのような工夫が必要なのです。
屋根はさわらの薄い板で葺いてあります。こけらぶき(柿葺)といって少しずつ重ねて葺いてあります。水に強いさわらの木(昔、風呂おけやなべの蓋に使った)ですが、25年に1度は葺き替えねばなりません。
内部正面に佛舎利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥檀があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。その上は小さな鏡天井になっています。
−まつられている三像について−
○ 北條時宗公について
時宗公は1251年(建長3年)に生まれ、文永5年18歳で執権に就任、同11年、1274年文永の役がおこりました。
父北條時頼の影響もあって、中国から招いた無学祖元禅師を師として参禅に励んでいました。文永・弘安の蒙古襲来という国難に立ち向かった執権時宗公は、金剛経・円覚経を血書し国師に奉納しました。
国師は時宗公の熱意に打たれ、「この般若の力を念ずれば、必ず勝利を得ることが出来る,」と励まし、「莫煩悩」の3字を書き与え、勇猛心を奮起させました。
この国師の激励があってこそ、時宗公が奮起し、日本軍を振るい立たせ蒙古軍を撃退させたのです。
この時宗をたたえ、昭憲皇太后は
あだなみは ふたたびよせず なりにけり
鎌倉山の 松のあらしに
とうたわれました。この歌は現在廟所の中に額に飾られています。
蒙古軍を撃退した時宗公は戦死者を敵味方区別なく(冤親平等)弔うため、また国師に鎌倉にとどまって禅をひろめて欲しいという願いもあって、弘安5年12月8日時宗公は円覚寺を開創し、落慶開堂を行いました。
その2年後34歳の若さで亡くなられました。
法名は 法光寺殿杲公大禅定門。
開山国師は時宗公が亡くなられた事を悲しまれ、自悼の詩に
法の為に人を求めて日本に来る
珠回り玉転じて荒台に委す
大唐沈却す孤筇の影
添え得たり扶桑一掬の灰
とあります。 時宗公夫人は国師について得度、潮音院覚山志道尼と号し東慶寺を開山しました。
○ 北條高時について
貞時公の子で、禅宗に深く帰依し、この佛日庵で貞時13回忌を盛大に執り行った記録が、古文書に記されています。
現在は残っていませんが、このころに法堂が建立されています。
高時公は南山士雲禅師や夢窓國師(夢窓疎石)に参禅されました。そして高時公は夢窓国師を鎌倉幕府滅亡の時代に住持としてむかえました。国師は後醍醐天皇や足利氏の信任が篤く、国師のご人徳と尽力によって円覚寺は戦乱から逃れ、寺を護持することができました。
法名、日輪寺殿鑑公大禅定門。