修行(雲水の生活)

接心-その前夜
せっしん-その前夜

 五月一日は雨安居(うあんご…夏、一カ所に集合、禁足しての修行)の入制(にゅうせい…シーズン入り)である。この日から七月末日までは禁足安居して坐禅と入室参禅(にっしつさんぜん)に明け暮れる。この九十日の間に、入制、半夏(はんげ)、夏末(げまつ)の大接心、そして、その前夜に「地どり」「ねり返し」などといわれる接心を繰り返す。一夏九十日は接心、接心の連続である。
接心とは摂心とも書かれるが、心の散逸を防ぎ、公案に全神経を集中して坐りぬくことである。そこに自然に禅定力が養われ、本来の自己、自他平等で欠くことのない仏心を自覚する。接心ともなればつねにも増して、大勇猛心(だいゆうみょうしん)、大願心を奮い起こすのはもちろんだが、他動的な力も大いに加えられる。みなの修行成就を願う老師や旧参の役位によって、非情で手荒な策励(さくれい)が加えられるが、これもみな親切以外の何ものでもない。
明日からの大接心を控えて、その前夜には総茶礼(そうざれい)が行なわれる。茶礼は僧堂の諸行事にさきだって必ず行なわれる儀式である。入制総茶礼ともなれば、一段と緊迫の度が加わり、緊張のひとときである。やがてくる嵐の前ぶれのような静かな緊張が僧堂にみなぎる。
 夕方の開板(かいはん…合図のために板を打つ)が全山の空気を震わせて響き終わる。それと同時に常住(じょうじゅ…庫裏)から茶礼の合図の柝(たく…拍子木)が五声打たれると、雲水たちは無言で足袋を着け威儀を改め、茶礼茶碗をめいめい袂にして、出頭の析が大声小声交互に打たれるなかを本堂に向かう。一同が本堂に着座し終わったころ、提灯(ていちん…持ち運びのできる行灯(あんどん))を持つ知客(しか)に先導されて、老師が静かに正面の毛氈(もうせん…赤い絨毯)が敷かれた席に着座する。それと同時に、一つの薬罐(やかん)の茶がつぎつぎにつがれていく。一同は黙って、しかもそろって一礼して茶を飲み終わる。そして、「ハイッ」というハリのある老師の一声で全員は平伏し、つぎの言葉を待つのである。

 茶礼は禅堂生活の根底を流れる平民的平等観の表現である。かつての軍隊式のぎこちなさや階級的峻厳さとは大いに趣を異にしている。
茶礼には必ず老師の垂誡(すいかい)がある。垂誠とは、禅に参ずる者の心構えや、古徳の行状などを簡単に語り、つねに新鮮な気をもって参禅弁道に努力するよう激励を与えることである。
一場の垂誡が終わり、ひきつづいて亀鑑(きかん)が読まれる。亀鑑とは手本、のりというほどの意味である。僧堂によってその文章に多少の相違はあるが、ともに参禅弁道を第一の公務としている。古徳が身命を惜しまずに修行された例話も記されていて、おのおのが頭燃を救う(頭の火を消す)がごとき思いで刻苦勉励、転迷開悟に骨折れ、と綴られている。その巻頭には、

禅門の徒、古則に参ずるは吾宗第一の公務なり云々

 または、

往昔(むかし)慈明、汾陽に在りし時、大愚、瑯瑘等と伴を結んで参究す。河東苦寒なり、衆人これを憚る

 などとある。みずからの股に錐(きり)をさして睡魔と闘った慈明和尚の逸話なども記されていて、どの亀鑑とも末尾は、
勉旃、勉旃(べんせん、べんせん…これをつとめよ、これをつとめよ)
と励ます言葉で結ばれている。
このあと堂内では日常規則、延寿堂(えんじゅどう)規則、入浴規則が、また僧堂の運営面を担当する常住(じょうじゅ)という役職には常住規則、旦過寮(たんがりょう)規則等々が古参の役位によって読まれる。
僧堂とはまことに規則ずくめなところだというのが、新到憎の感想であろうか。